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人生朝露

人生朝露

「看羊録」 その5。

多分、今日でおしまい。

姜コウは、1598年の6月から伏見で軟禁状態になっている。この年の8月、秀吉は伏見城で波乱の生涯を終えた。姜コウの目と鼻の先で、憎むべき秀吉は死んだ。そして、その死の直前に、慶長の役(丁酉の乱)は終わっていた。もはや誰も継続を望んではいなかった。

朝鮮出兵で秀吉が得たものは、ほとんど無かったと言っていい。失ったものの大きさに比べれば、米粒ほどの価値も無いものだった。朝鮮のみならず、明国、さらには天竺までもを版図としようとした誇大妄想の結果は、徒に消耗して国家財政を逼迫させ、体制の内部に分裂を生み、政権の基盤を失うことで終わった。草履取りから必死の思いで駆け上がり、ついに掴み取った天下を、家康にくれてやったようなものだと今でも思う。「無名の帥」という謗りは免れ得ない。老人性の熱病というか、晩年の秀吉の、状況判断能力の衰えと無思慮な攻撃性は、彼の輝かしい半生に大きなシミを落とした。

姜コウは、伏見の「耳塚」に訪れている。
遠い朝鮮から首級を輸送するのは困難なので、代わりに耳を切り落として、塩と石灰に漬けて日本へ送り検分した。途中から、「人間の耳は二つある」ということで、鼻を詰めるように命じられている。別名「鼻塚」。朝鮮出兵の本来の主たる目的は、大名の知行を増やすことにあったが、(秀吉の直轄領は、後の家康のそれに比べても明らかに少ない。家臣に与える知行が少なかったことは確か。)どうも途中から明への攻略の橋頭堡として、朝鮮へ移住するために、朝鮮人を「間引き」するような意図があったように見える。もちろんそんなことは不可能なんだが、「鼻の数」の帳尻を合わせるために、戦には関係のない、生きた農民の鼻を切り落としたこともあったようで、慶長の役の後には鼻の無い朝鮮人も多かったと記録されている。

姜コウは、哀悼のために、耳塚に次の文を残した。

「鼻耳西峠に、大蛇東蔵す。帝ハ蔵塩し、鮑魚香らず。」(大蛇は、「シュウダ」。修の旁の下が「月」。帝ハのハは、「羊+巴」。)

意地の悪い言い方だけど、この人は、あまり詩文の才があったようには思えない。意味もよく分からない。朝鮮の同胞たちの近くに秀吉が埋葬されたが、秀吉の遺体も彼らと同じように塩漬けにされた。もう、秀吉の悪臭は臭わないよ。といったところかな。

秀吉の亡骸は伏見の豊国廟に納められた。姜コウはそこに通りがかっている。その門には、こう書かれてあった。

「大明の日本、一世に豪を振い、太平の路を開くこと海よりも勝つ濶く、山よりも高し。」

姜コウは、この文章を許せなかった。
当然だろう。少なくとも、秀吉に相応の分別があって、せめて五奉行の忠言を聞き入れる度量さえあれば、姜コウの家族は殺されずに済んだかもしれない。

この銘を筆で塗りつぶし、次のように書き直したとされる。

半生経営土一抔  半生の経営 土一抔
十層金殿徒崔嵬  十層の金殿 徒に崔嵬たり
弾丸亦落他人手  弾丸もまた 他人の手に落つ
何事青丘捲土来  何事ぞ 青丘に捲土して来るは

「崔嵬」はそびえたつさま。「弾丸」は領土。「青丘」は東国、この場合は朝鮮のこと。こちらは簡単なので訳は要らんでしょう。「筆は剣よりも強し」と言ったところか。秀吉の辞世の句である、「露と落ち露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも通じる要素を感じる。

(後に藤原惺窩がこの落書きをを見て、慌てて姜コウのところにやってきて、「あの文の筆跡はあなたのものでしょう?どうしてご自愛なさらんのですか。」と叱っている。姜コウは、日本でいつ殺されてもおかしくないようなことも、いろいろやっておる。)

この落書きを、現在は確認することができない。落書きどころか豊国廟そのものが、家光の頃に廃されてしまったのだから。逆に家康は東照宮として祀られることになる。関西弁で、「物事が上手くいかないさま」を「あがったりですわ」と表現するが、これは、江戸に入って廃れてしまった豊国廟の様子に由来するとされる。(ちなみに、大坂の陣のいちゃもんの原因となった「国家安康」「君臣豊楽」という方広寺の釣鐘を解読したのは、惺窩の弟子の林羅山。)

関ヶ原の直前の混乱期に、姜コウは朝鮮へと帰国した。自らを「罪人」と見なしていたようで、結局官職には復帰せず、教育に従事して、多くの弟子を輩出していった。彼は儒学という特殊技能を有していたから、他の同胞たちよりも優遇されたが、秀吉の朝鮮出兵の際に拉致された朝鮮人たちは、2万を下ることはないと思われる。ほとんどが奴婢として使役され、南蛮船に奴隷として売られた例も見られる。唐津や萩、薩摩焼などの製法を伝えた陶工たちのように(おそらくは尊敬を集めながら)日本に同化していった人々も多い。

江戸期においては、秀吉は幕府の排斥の対象であったが、秀吉の人気は庶民の間では悪くなかった。むしろ「立身出世」の象徴として親しまれていた。その後、明治に入って、秀吉人気は異常な盛り上がりを見せる。「四民平等」の世では、秀吉の立志伝は格好の教材であり、身分制度に縛られた人々にとって、「反徳川」」の英雄である。豊国神社も建て直された。

秀吉と同じような待遇を受けた人物としては、大村益次郎もそうだろう。農家の生まれでありながら、明晰な頭脳をもって幕府軍を打ち破り、近代的な明治の軍隊を作り上げた。四民平等というのは、一面においては「サムライ殺し」の性格を有している。戊辰戦争や西南戦争という「サムライ殺し」で倒れた平民を「神」として祀る靖国神社も、四民平等という理念を実現するには必要だった。「国民皆兵」の時代に、侍は存在してはならない。そういう時代なんだろう。

乱暴な言い方になるかもしれないが、「四民平等」と「下克上」、「鉄砲伝来」と「開国」、「太閤検地」と「地租改正」、「刀狩」と「国民皆兵」・・。中世とか近世とか、近代とかいう偉い学者さんの分類を取っ払ってしまうと、秀吉人気が回復した明治という時代は、姜コウの見たころの日本とあまり変わらないように見える。そして、再び日本は朝鮮を攻めた。

「倭の性質は怜悧でよく学び、四、五十年の間に妙手が国中に広がった。今の倭奴は昔の倭奴ではない。わが国の防御もまた、古の防御ではいけない。」、「百万の野人(女真族)さえ、十万の倭卒の敵ではない。にもかかわらず、国家は南を軽んじ、北を重視する。」

「看羊録」における姜コウの指摘は300年後において正しかったように思える。(もちろん、「朝鮮出兵」と「韓国併合」では目的においては別物なのだが、方法論において「近代化」していたとは思えない。「小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ」・・・これも怒られて当然。)

秀吉の朝鮮出兵はさらに美化され、天竺にまで広げようとした構想は、「大東亜共栄圏」の先駆けとして評価されるようになった。結果は、ご存じのとおり「半生の経営土一抔」となった。そして、現在も「何事ぞ青丘に捲土して来るは」怒りをぶつけられている。

この本が絶版というのは、実に惜しいと思うね。

まぁ、この辺で。



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